富山敬さんがお亡くなりになられて今日で19年。
あのころはまだ家にネットはおろか、パソコンもない頃で
翌日の新聞の訃報欄で富山さんが逝去されたことを知り
ショックで絶句したのを覚えてる。
ここ数年のこの日はヤマトの完結編をDVD再生し
富山さんのお声の古代君を観てます。
生きてらしたら
生きていらしたら
完結編後のヤマトでも古代君を演じてたかしらと
考えてもみたり。
それとも後進に道を譲ってただろうかとも。
19年・・・。
その間にヤマトで演じられた声優さんたちが幾人も
あなたの元へ行ってしまわれました。
私は間違いなくあなたが天国におられるものと
信じていますし、きっと同じところにと。
時の流れを感じざるを得ません。
改めて
合掌
あのころはまだ家にネットはおろか、パソコンもない頃で
翌日の新聞の訃報欄で富山さんが逝去されたことを知り
ショックで絶句したのを覚えてる。
ここ数年のこの日はヤマトの完結編をDVD再生し
富山さんのお声の古代君を観てます。
生きてらしたら
生きていらしたら
完結編後のヤマトでも古代君を演じてたかしらと
考えてもみたり。
それとも後進に道を譲ってただろうかとも。
19年・・・。
その間にヤマトで演じられた声優さんたちが幾人も
あなたの元へ行ってしまわれました。
私は間違いなくあなたが天国におられるものと
信じていますし、きっと同じところにと。
時の流れを感じざるを得ません。
改めて
合掌
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家にいて階段部分がミシミシと、
部屋のガラス戸がかすかにカタカタと音を立てた。
当時高校を卒業したばかりの次男が
剣道部の卒業生の集まりから帰宅して
ドアが開いたんだと思い
玄関に向かって「お帰り~」と声をかけても
誰もいない。
「あン?地震か?震度1ぐらいかな?」と
何気につけたテレビ。
そこに映し出された東北地方を襲う
津波の惨状に言葉を失った日から3年。
夜のニュースでも特集を組んで報じている。
三年が過ぎた今を。
まだまだあるはず。
遠く離れた地に住みながらでも
ほんのちょっとでもお役にたてることが。
考えます。もっと。
もっと。
部屋のガラス戸がかすかにカタカタと音を立てた。
当時高校を卒業したばかりの次男が
剣道部の卒業生の集まりから帰宅して
ドアが開いたんだと思い
玄関に向かって「お帰り~」と声をかけても
誰もいない。
「あン?地震か?震度1ぐらいかな?」と
何気につけたテレビ。
そこに映し出された東北地方を襲う
津波の惨状に言葉を失った日から3年。
夜のニュースでも特集を組んで報じている。
三年が過ぎた今を。
まだまだあるはず。
遠く離れた地に住みながらでも
ほんのちょっとでもお役にたてることが。
考えます。もっと。
もっと。
午後から雨になるとの予報が出ていたんですが、
法要を終えて帰宅するまでは降ることなく、
ばぁちゃんの四十九日法要も京都の叔父宅で無事に終わりました。
今日は暖かくて病気がちな父も体調が良かったようで
先日のお葬式にお会いした親戚、特に自分の兄弟たちとの
話しも弾んだ様子でホッとした♪
ちょっと前にばぁちゃんの訃報を聞いて
あたふたしつつ、実家の両親や妹も一緒に
お葬式に参列したと思ってたらもう四十九日かぁ・・・。
時間の流れってはやいわ。
ここからちょっと懐古(笑)
私が小学校低学年の頃、たぶん2年生の時だったと
記憶してるのでもう40年ほど前になりますか、
父方の親戚の家でおばあちゃんのお葬式にいくために
学校を休んだことがありました。
まだ小さかったのと、それまでにそのおばあちゃんに
会うことがほとんどなかったのですが、幼心に
「私のおばあちゃんが死んじゃった…」と
感じた想いが残っています。
母方の祖父母はともに私が生まれる前に
亡くなっているし、父方の祖父も早くに亡くなっていて
おばあちゃんと呼べるのはその方だけでした。
が、
それから数年後の
中学生の時だったか、家に電話がかかって来て
私が出てみれば、電話の相手は
京都に住むおばーちゃん!!とな?
おとーさんのおかーさんである おばあちゃん!
?????????
母に電話を代わってみれば
おばあちゃんが近くうちに遊びに来るという。
脳内混乱☆ナンデストー?オバーチャン?
もちろん速攻で母に問いただしたねぇ~。
小学2年生の時にお葬式に行った
あの亡くなったおばあちゃんは誰?と。
そしたら母の答えは
「あんたのひいばあちゃんに当たる人で
今電話があったおばあちゃんのお母さんや」
つまり、
父の母の母。
あ~~そゆこと~♪(納得の手をポン!)
脳内混乱解消!(笑)
父とおばあちゃんとは仲が悪いわけでもないのに
(もちろん、私の母である嫁との仲が悪いわけでもない)
なぜかずっとお互いに行き来することが何年も何年も
なかったし、もっとなぜかうちの両親が私ら姉妹に
おばあちゃんの話をすることもなかったので
その小2の時に見送ったおばあちゃんが
ひいばあちゃんではなく、
父の母たるおばーちゃんだと思ってました!!
だから
おばあちゃんがいる!生きてる!と知った時の
衝撃ったらもう!
それからは結婚までに何度か会うこともあり、
私の結婚式にも出席してくれたし、
ひ孫になるうちの長男が生まれたときも
会いに来てくれったっけ♪
ただ、そのあとはまたちょっと行き来がなくなって
とうとううちの次男はひいばあちゃんに一度も
会えないまま永遠のお別れになっちゃったのが
悔やまれて悔やまれて…。
おばあちゃん
実家の両親も私たちも
妹家族もみんな元気で暮らしてるから安心してや♪
これからも元気で頑張って行くから~♪
見守っててな♪
法要を終えて帰宅するまでは降ることなく、
ばぁちゃんの四十九日法要も京都の叔父宅で無事に終わりました。
今日は暖かくて病気がちな父も体調が良かったようで
先日のお葬式にお会いした親戚、特に自分の兄弟たちとの
話しも弾んだ様子でホッとした♪
ちょっと前にばぁちゃんの訃報を聞いて
あたふたしつつ、実家の両親や妹も一緒に
お葬式に参列したと思ってたらもう四十九日かぁ・・・。
時間の流れってはやいわ。
ここからちょっと懐古(笑)
私が小学校低学年の頃、たぶん2年生の時だったと
記憶してるのでもう40年ほど前になりますか、
父方の親戚の家でおばあちゃんのお葬式にいくために
学校を休んだことがありました。
まだ小さかったのと、それまでにそのおばあちゃんに
会うことがほとんどなかったのですが、幼心に
「私のおばあちゃんが死んじゃった…」と
感じた想いが残っています。
母方の祖父母はともに私が生まれる前に
亡くなっているし、父方の祖父も早くに亡くなっていて
おばあちゃんと呼べるのはその方だけでした。
が、
それから数年後の
中学生の時だったか、家に電話がかかって来て
私が出てみれば、電話の相手は
京都に住むおばーちゃん!!とな?
おとーさんのおかーさんである おばあちゃん!
?????????
母に電話を代わってみれば
おばあちゃんが近くうちに遊びに来るという。
脳内混乱☆ナンデストー?オバーチャン?
もちろん速攻で母に問いただしたねぇ~。
小学2年生の時にお葬式に行った
あの亡くなったおばあちゃんは誰?と。
そしたら母の答えは
「あんたのひいばあちゃんに当たる人で
今電話があったおばあちゃんのお母さんや」
つまり、
父の母の母。
あ~~そゆこと~♪(納得の手をポン!)
脳内混乱解消!(笑)
父とおばあちゃんとは仲が悪いわけでもないのに
(もちろん、私の母である嫁との仲が悪いわけでもない)
なぜかずっとお互いに行き来することが何年も何年も
なかったし、もっとなぜかうちの両親が私ら姉妹に
おばあちゃんの話をすることもなかったので
その小2の時に見送ったおばあちゃんが
ひいばあちゃんではなく、
父の母たるおばーちゃんだと思ってました!!
だから
おばあちゃんがいる!生きてる!と知った時の
衝撃ったらもう!
それからは結婚までに何度か会うこともあり、
私の結婚式にも出席してくれたし、
ひ孫になるうちの長男が生まれたときも
会いに来てくれったっけ♪
ただ、そのあとはまたちょっと行き来がなくなって
とうとううちの次男はひいばあちゃんに一度も
会えないまま永遠のお別れになっちゃったのが
悔やまれて悔やまれて…。
おばあちゃん
実家の両親も私たちも
妹家族もみんな元気で暮らしてるから安心してや♪
これからも元気で頑張って行くから~♪
見守っててな♪
今日の昼過ぎの事、買い物から帰って少し経った頃
家の電話がなりまして夫が出た。
私の妹から。
最初「ふむふむ、え~?」と少しばかり妹と会話した夫が
その受話器を私によこしつつ
とっても落ち着いてこう言った。
「おやっさん(と、夫は私の父をこう呼ぶ)、夕べ夜中に
救急車で病院に運ばれたって」
「は?」
え?
え?え?
慌てて受話器を夫の手から奪い取る私。
妹によると、母から連絡があって
昨夜夜中に父がトイレで大量の下血をし
(かなりの塊もあったと)
慌ててかかりつけの病院へ電話したものの、
土曜日の夜中ということもあって
当直の先生が整形外科の先生しかいないとか☆
なので救急車を呼んでの搬送となったんだけど
ここでも土曜日の深夜という分厚い壁が邪魔をして
いわゆる「たらい回し」の果て
ようやく受け入れてくれる病院が見つかり
HCU(← すみません、ここでの説明は省きますので
検索をお願いいたします)にひとまず入ったとのことで。
今日が日曜日でよかった!
すぐにバイトに行かねばならない次男に
ばーちゃん家に行ってくると伝言をして
夫、長男、私とで車を飛ばして実家へ向かう。
すると実家では昨夜からの緊張するバタバタのため
疲労困憊の母が仮眠を取っていて
私の姿を確認すると疲れた体を起こして
上記の下血のことなどの事の次第を説明してくれた。
そこへ連絡をくれた妹もやってきて
とりあえず明日また病院へ行くからという母を残して
私ら三人と妹の四人で父が担ぎ込まれた病院へ
車をかっ飛ばして向かう。
受付の病院職員さんに説明を受けて向かった
そのHCUに入ってみると、父が
ベッドの上に ちょこんと座ってまして。
母からの説明でどれだけの重病状態なんだろうと
心配!心配!心配!だった私は(たぶんほかの3人も)
安堵の脱力☆!!
担当のナースさんに話を聞くと
やっぱり担ぎ込まれたのが土曜日の深夜ということで
当直の先生がおそらく父の症状を診られる診療科以外の
先生だったのでしょう、とりあえずは大量下血に対処する
点滴を受けているところでした。
当然のごとく、血圧計や心電図の測定端子が
体中にくっついていてその数値が
ベッドサイドのマシンのモニターに出ていましたが
素人目に見ても安心できる数値で。
明日には担当の先生が決まって検査も始まるとのことだったのと、
思いのほか父が元気・・・と言うのはおかしいかも知れませんが
意識不明とか危篤状態ではなかったことに安堵して
早々に病院を後にしました。
HCUだし見舞客が長居できる病室ではなかったしね。
そして再度実家に立ち寄り病院での父の様子を母に伝え
私らは帰宅してきました。
明日また私だけでも実家へ行って
母と一緒に病院へ見舞いと様子見に行ってきます。
このまま大したことにならずに退院になればいいんだけどな。
まずは大量下血の原因がなんなのか
しっかり検査してもらわないと!
しかし数年前からあれやこれやと
寄る年波に勝てない症状が目立ち始め
すでに慢性化した病気を抱えて
病院とは縁を切れない身となっている父。
そんな父を介護する母、
父より一つ年上。
老老介護の典型的パターンじゃないか!
正月や5月の連休などで実家へ行くたびに
両親の「老い」が目をそられられない現実だということを
痛感させられる。
小さな背中がますます小さくなっていく。
そんな状態。
病院へ向かう車の中で妹は言った。
「もしかしたら 覚悟が いるかも」と。
その言葉、現実味があるだけに 重い。
こまめに実家へ行って
母の様子も父の状態もしっかり見ることにする。
母の力になる。ちょっとでも。
数年前に姑、舅を見送ってから終わった状態になってた老親介護。
また始まることを覚悟した。
家の電話がなりまして夫が出た。
私の妹から。
最初「ふむふむ、え~?」と少しばかり妹と会話した夫が
その受話器を私によこしつつ
とっても落ち着いてこう言った。
「おやっさん(と、夫は私の父をこう呼ぶ)、夕べ夜中に
救急車で病院に運ばれたって」
「は?」
え?
え?え?
慌てて受話器を夫の手から奪い取る私。
妹によると、母から連絡があって
昨夜夜中に父がトイレで大量の下血をし
(かなりの塊もあったと)
慌ててかかりつけの病院へ電話したものの、
土曜日の夜中ということもあって
当直の先生が整形外科の先生しかいないとか☆
なので救急車を呼んでの搬送となったんだけど
ここでも土曜日の深夜という分厚い壁が邪魔をして
いわゆる「たらい回し」の果て
ようやく受け入れてくれる病院が見つかり
HCU(← すみません、ここでの説明は省きますので
検索をお願いいたします)にひとまず入ったとのことで。
今日が日曜日でよかった!
すぐにバイトに行かねばならない次男に
ばーちゃん家に行ってくると伝言をして
夫、長男、私とで車を飛ばして実家へ向かう。
すると実家では昨夜からの緊張するバタバタのため
疲労困憊の母が仮眠を取っていて
私の姿を確認すると疲れた体を起こして
上記の下血のことなどの事の次第を説明してくれた。
そこへ連絡をくれた妹もやってきて
とりあえず明日また病院へ行くからという母を残して
私ら三人と妹の四人で父が担ぎ込まれた病院へ
車をかっ飛ばして向かう。
受付の病院職員さんに説明を受けて向かった
そのHCUに入ってみると、父が
ベッドの上に ちょこんと座ってまして。
母からの説明でどれだけの重病状態なんだろうと
心配!心配!心配!だった私は(たぶんほかの3人も)
安堵の脱力☆!!
担当のナースさんに話を聞くと
やっぱり担ぎ込まれたのが土曜日の深夜ということで
当直の先生がおそらく父の症状を診られる診療科以外の
先生だったのでしょう、とりあえずは大量下血に対処する
点滴を受けているところでした。
当然のごとく、血圧計や心電図の測定端子が
体中にくっついていてその数値が
ベッドサイドのマシンのモニターに出ていましたが
素人目に見ても安心できる数値で。
明日には担当の先生が決まって検査も始まるとのことだったのと、
思いのほか父が元気・・・と言うのはおかしいかも知れませんが
意識不明とか危篤状態ではなかったことに安堵して
早々に病院を後にしました。
HCUだし見舞客が長居できる病室ではなかったしね。
そして再度実家に立ち寄り病院での父の様子を母に伝え
私らは帰宅してきました。
明日また私だけでも実家へ行って
母と一緒に病院へ見舞いと様子見に行ってきます。
このまま大したことにならずに退院になればいいんだけどな。
まずは大量下血の原因がなんなのか
しっかり検査してもらわないと!
しかし数年前からあれやこれやと
寄る年波に勝てない症状が目立ち始め
すでに慢性化した病気を抱えて
病院とは縁を切れない身となっている父。
そんな父を介護する母、
父より一つ年上。
老老介護の典型的パターンじゃないか!
正月や5月の連休などで実家へ行くたびに
両親の「老い」が目をそられられない現実だということを
痛感させられる。
小さな背中がますます小さくなっていく。
そんな状態。
病院へ向かう車の中で妹は言った。
「もしかしたら 覚悟が いるかも」と。
その言葉、現実味があるだけに 重い。
こまめに実家へ行って
母の様子も父の状態もしっかり見ることにする。
母の力になる。ちょっとでも。
数年前に姑、舅を見送ってから終わった状態になってた老親介護。
また始まることを覚悟した。
次男が大学のスケジュールの都合で
ど~~~~~~~~しても出席できないままでしたが、
亡き姉の五十回忌の法要が実家で営まれて
無事に終わりました。
記憶間違いをしていたことに気づきまして
姉が亡くなった時は私は一歳になったばかり。
本当に元気でいてくれてたら、妹との三姉妹で
どんな人生を送ってただろうかと
考えずにはいられませんでした。
今日のこの日まで一瞬たりとも
姉を忘れず偲んできた両親の気持ちは
どんなにかだっただろうと。
今日の法要の後の会食のために母が注文していた
仕出しの松花堂弁当が届いたとき、
配達してくれた店員さんとの数量の確認で
「お弁当が7食と、お子様ランチが1つ」という言葉が聞こえて
「?お子様ランチ??」との疑問が。
参列した最年少の姪っ子もすでに高校生。
その答えはすぐにわかった。
ビスケットのオマケも付いたかわいいキャラが描かれた
紙箱に納まる小さなお子様ランチのお弁当は
母の手によってそっと姉のお仏壇にお供えされました。
泣くのを抑えきれなかった私・・・。
そして
50年ほど前の時代、今とは比べ物にならないほど
便利ではなかった時代に
決して裕福ではなかった両親が
(時代が時代でしたから、世の中のほとんどが
そういう家庭環境だったんだろうと思われますが)
お互いの実家が遠いがため、
親の力を借りるのが容易ではなかったので
自分たちが本当に助け合って
懸命に私たちを育ててくれたんだと
今さらながら痛切に身に染みた日でもありました。
本当に本当に大事なこのことに
なんでもっともっと早くに気づかないのか。
自分に腹が立ちます。
姉ちゃん、とーちゃんとかーちゃんのことは
今まで以上に心を配って大事にするから。
大丈夫だからね!
ど~~~~~~~~しても出席できないままでしたが、
亡き姉の五十回忌の法要が実家で営まれて
無事に終わりました。
記憶間違いをしていたことに気づきまして
姉が亡くなった時は私は一歳になったばかり。
本当に元気でいてくれてたら、妹との三姉妹で
どんな人生を送ってただろうかと
考えずにはいられませんでした。
今日のこの日まで一瞬たりとも
姉を忘れず偲んできた両親の気持ちは
どんなにかだっただろうと。
今日の法要の後の会食のために母が注文していた
仕出しの松花堂弁当が届いたとき、
配達してくれた店員さんとの数量の確認で
「お弁当が7食と、お子様ランチが1つ」という言葉が聞こえて
「?お子様ランチ??」との疑問が。
参列した最年少の姪っ子もすでに高校生。
その答えはすぐにわかった。
ビスケットのオマケも付いたかわいいキャラが描かれた
紙箱に納まる小さなお子様ランチのお弁当は
母の手によってそっと姉のお仏壇にお供えされました。
泣くのを抑えきれなかった私・・・。
そして
50年ほど前の時代、今とは比べ物にならないほど
便利ではなかった時代に
決して裕福ではなかった両親が
(時代が時代でしたから、世の中のほとんどが
そういう家庭環境だったんだろうと思われますが)
お互いの実家が遠いがため、
親の力を借りるのが容易ではなかったので
自分たちが本当に助け合って
懸命に私たちを育ててくれたんだと
今さらながら痛切に身に染みた日でもありました。
本当に本当に大事なこのことに
なんでもっともっと早くに気づかないのか。
自分に腹が立ちます。
姉ちゃん、とーちゃんとかーちゃんのことは
今まで以上に心を配って大事にするから。
大丈夫だからね!